死ぬ勇気がある人、ない人
幸福な人間か否かの判断基準についてとやかく言われるが、僕は自殺について一度も考えたことのない人間を幸福な人間だと思っている。
高校生くらいまでの僕は、思春期を過ごせば誰もが死や自らの存在について考えるものだとばかり思っていたが、実際はそうでもないらしいことに気が付いた。
死んでしまいたいとか、自分には生きる価値がないとか、ポジティブの星に生まれついた人間はどうもそういう思考には至らないらしいのだ。
生まれた環境がよかったのかもしれないし、周りの人間関係に恵まれてるのかもしれない、まあ僕とは相容れない人種なのでどうでもいい話ではある。
僕が極めて共感するのはそうではない人間のほうだ。死にたいとか、生きる意味とか、常日頃からそんなことばかり考えてる人たち。僕は彼らをとても魅力的だと思う。
僕が最初に死について考えたのは小学生一年生の頃だったと思う。学校からの帰り道でなんだかすべてがどうでもよくなって、道路に飛び込もうか小一時間悩んでいたところをPTAの人に止められた。
原因はなんだったか忘れたけど、少なくとも小さい頃にそんな思考に陥る僕はポジティブ人間ではないのだと思う。
僕は今23歳だが、経歴だけを見れば途中まではそこそこに生きてきたように見える。
普通に小中高校を出て、友達もそこそこいた。大学は高校から考えれば信じられないくらい偏差値の高い私大の文学部に入学して、サークルは東大のインカレ軽音サークル。華々しいではないか。
でもそのあとが散々だ。大学は2年で中退。飲食店のバイトも塾講師も3,4日で辞めて、今は在宅勤務でかろうじて生活を繋ぐ日々。友達にも何年も会ってない。
思えば、自分にしてはうまくいきすぎていたのだ。軌道修正してここに戻ってきたような感じがする。
なんというか、僕はできるだけ他人と関わりたくないのだ。自分のことを知られたくないし、他人のことを知りたいとも思わない。特に自分のことを知られたくないという思いは強くて、それが僕をここまで連れてきた元凶かもしれない。
とりあえず僕はこんな人間で、いつも死にたい死にたいと思って生きている。
でも死のうとはなかなか思わない。というか死ねない。
というのも、僕には死ぬ勇気がないから。縄を首にくくって死ぬことも、高いところから飛び降りることもできない。そんな勇気はない。
だから自殺できる人たちを僕はとても羨ましく思う。よく死んではだめだ死んではだめだなんてワイドショーのコメンテーターが言うけれど、僕は散っていった彼らに称賛の言葉を送りたい。よくぞ勇気を振り絞った、と。
こんなことを言うと「自殺を称賛するな!自殺者が増えるだろう」なんて的外れなことを言う人が必ず出てくるけれど、そういうやつらこそ彼らの気持ちを全く理解していないのだ。死んだことで人生の苦しみから解放されたんだから、彼らにとってはいいことだったのだ。
そもそも死ぬ勇気をもてる人間っていうのは遅かれ早かれ自死にたどり着くのだ。死ぬ勇気のない人間は、どんなにつらいことがあっても死ぬことができない。こういう生き地獄を味わっている人々こそが救われるべき対象だ。死ぬ勇気のある人のことなんて放っておいていい。
かなり最近の話だったと思うけど、ツーリングの旅をTwitterで実況して、その旅の最後に橋から身を投げて自殺した人がいた。僕は彼をとてもかっこいいと思った。けど彼の最後のツイートのリプライにはくだらない否定の言葉が並んでいて、すごくガッカリした記憶がある。旅の最後に死ねるなんて、本当にかっこいい生き方なのに。
久しぶりに文章を書いたので稚拙な表現が多かったかもしれない。主張もわかりづらかったかも。もし読んでくれた人がいれば、最後まで読んでくれてとてもうれしいです。ありがとう。